文学选读近代作者介绍

(一) 開高健

日本战后一代派代表作家。

生于大阪市天王寺区东乎野。父亲是小学校校长。于1949年进入大坂市**学科,在学期间参加了同人杂志《铅笔》《文学室》的工作。大学毕业后,于1954年在三得利制酒股份公司宣传课就职。在此期间, 《近代文学》杂志发表《二人》、《声音》。

1957年以后真正步入文坛,同年8月在《新日本文学》杂志发表《恐慌》,10月和12月分别在《文学界》杂志发表《巨人和玩具》、《裸体国王》。《裸体国王》获芥川文学奖。成为日本战后一代派代表作家之一。与大江健三郎一起,蜚声文坛,开辟了一个战后一代派的文学时代。此后,著有《流亡记》,描写了中国古代万里长城的修建。 1968年发表《光辉的黑夜》这部小说取材于越南战争。

1971年发表《夏天的黑暗》。在这一期间的一系列作品,一方面赞美生命原始性的能量和集体的无政府主义的魔力,但同时又认为这种奔放的沸腾的力量又是浪费和徒劳的,作家对处于这种状态的人生怀着深深的怜惜之情。

60年代以后开高健参加了不少的社会和国际活动,1965年以朝日新闻社特派员的身份到南越,归国后号召成立了“越南和平联合会”。1968年以文艺春秋社特派员的身份去巴黎取材,1969年去当地观察中近东战争。他的不少小说以国际问题为题材,因此在日本国内有“国际作家”之称。1960年,开高健作为日本作家代表团成员曾来我国访问,对我国人民充满友好情谊。

作品风格:大多采取离奇的寓意手法,表现对资本主义社会黑暗现实的反抗情绪,以及个人在强大势力面前的无能为力。

開高健

(かいこうたけし)

1930~1989

大阪市上本町

**学科

戦後一代派

『パニック』:山林課に配属された公務員の男の話です。120年に一度の自然現象が起きました。冬の間は雪の下で気がつきませんでしたが、春になってネズミが大量発生しました。山林をかじり尽くして、畑を壊滅させます。ついには、納屋で寝かせていた赤ちゃ

んがネズミにかじり殺されました。人々はパニックに陥ります。主人公の男は、役所内では一匹狼でした。何を考えているのかわからないところがあり、同僚からは距離を置かれて、上司からはけむたがられていました。しかし、ネズミの大量発生とその被害を正確に予告していたのはこの男だけでした。「パニック」はそんな男が自然現象の前に立ち向かい人間の無力さを知る場面で終わる物語でした。

『裸の王様』:は、絵画教室の講師をする男の物語です。友人から一人の少年の面倒を頼まれます。太郎という少年は、主人公の絵画教室に通いはじめます。太郎は絵をまったく描けませんでした。主人公は、すぐに太郎の家庭環境に問題があることに気がつきます。主人公は、親の期待に答えようとおびえる少年の心を解放するために尽力します。「裸の王様」はそんな絵画教室の講師と少年の物語でした。

『なまけもの』1958(昭和33)年

『屋根裏の独白』1959(昭和34)年

『日本三文オペラ』1959(昭和34)年

『ロビンソンの末裔』1960(昭和35)年

『過去と未来の国々』1961(昭和36)年

『片隅の迷路』1962(昭和37)年

『声の狩人』1962(昭和37)年

『夏の闇』1972(昭和47)年。文部大臣賞を打診されたが辞退。 『耳の物語』1986(昭和61)年。第19回日本文学大賞を受賞 * 「新日本文学」に「パニック」を発表、小説家として立つ。 * 芥川賞受賞後、大江健三郎と並んでマスコミの寵児として作品を発表。

* 昭和35年後、中国や欧州諸国を歴遊、パリでデモに加わったり、サルトルに会見したりした。

* 昭和40年後、ルポルタージュ作家として活躍。

(二)山本周五郎

日本时代小说大师,(1903-1967) 、出生於日本山梨县。横滨市西前小学毕业後,前往东京木挽町山本周五郎当铺当学徒。

1926年4月,於〈文艺春秋〉发表《须磨寺附近》,成为文坛成名作。第一回文艺春秋悬赏小说。

1943年曾以《日本妇道记》获得直木奖,但山本周五郎公开婉拒,在文坛引发不小震撼。

1958年完成大作《留下的枞树》,以後陆续写成《红胡子诊疗谭》(1958年)、《青舢板物语》等代表作。

1961年 《青舢板物语》 文艺春秋读者奖(辞领)。

山本周五郎的创作颇丰,并曾多次被改编为电影及电视。

过世那年,新潮社为了纪念他,推出了「山本周五郎小说全集」38卷。

1990年,新潮文艺振兴会设立山本周五郎赏。

山本周五郎

(やまもとしゅうごろう)

1903~1967

山梨県出身

本名:清水三十六

『日本婦道記』:は武家社会や町人社会で生きる女たちの、生活の様、つつましさ等を通して、女性のあるべき姿を、数編の短編小説にまとめたものです。直木賞固辞。

『樅の木は残った』:江戸時代、仙台藩伊達家の家老、原田甲斐という人物を描いた物で、主家乗っ取りを企む分家当主と、そのお家騒動に便乗して、伊達家を取りつぶさんとする幕府権力に対し、原田甲斐は自らが汚名を一身に背負って殺害されることで、伊達家を守る、という内容。毎日出版文学賞固辞。

『赤ひげ診療譚』:保本登は、長崎でオランダ医学を学び、江戸に帰ってきた。立身出世をめざす意気盛んな若者である。父親に命じられ顔を出した先は、小石川療養所。そこでは、赤ひげを含め3名の医者が、貧しく行く当ても希望もない多数の人々を治療していた。そして、保本の意志とは裏腹に、彼は、小石川療養所で住み込み医師として働くことを決められていたのだ。最初は反発する保本であるが、次第に赤ひげの患者に向かう姿勢に共鳴していき、婚約者の裏切りの心の傷も癒えていく…。

『青べか物語』:浦粕町(現在の浦安町)に移り住んだ“蒸気河岸の先生”こと作者が、浦粕町での数々のエピソードのエッセンスを小説化したもの。

『季節のない街』:時限もなく地理的限定もない架空の貧民街で懸命に生きようとする庶民の人生を、数々のエピソードの断面で描き出そうとする。

『長い坂』

『おごそかな渇き』絶筆、未完。s

* 短編小説に優れた。

* 横浜一中を中退後、東京木挽き町の質屋山本周五郎質店に徒弟として住み込む。

* 「樅の木は残った」や「赤ひげ診療譚」はNHKテレビで放映され。

* 「読者から与えられる以上の賞があるとは思えない」という確固たる信念に基づいて、一切の賞の受賞を辞退した。

(三)太宰治

日本战后新戏作派代表作家,生于清森县北津轻郡金木村的一个大地主家庭。本名津岛修治。父亲曾为贵族者员,并在本乡兼营银行。为防农民暴动,家筑高墙,太宰治住在这样的深宅大院里有种内疚和不安感,甚至出现了一种罪恶感,对他后来的小说创作有很大影响。太宰治在家中排行第六,日本战前的家长制和长子继承制给他造成了一种多余者的感觉,幼年时期的一举手一投足都要察看父兄的颜色。他在青森中学、弘前高校毕业后,于1930年考入东京大学法文科,在大学时代参加了左翼运动,后来转向,开始从事文学创作。

太宰治的创作生涯大致可以分为三个阶段

前期是1932至1937年,这是左翼运动被镇压的时代。著有短篇小说集《晚年》(1933~1936),共收入了40篇,这些短篇都充满了青春时期的热情,多角度地反映了作家自己的主张和内心世界。此后又发表《虚构的傍徨》(1936)、《二十世纪的旗手》(1937)等作品。 中期是1938至1945年。著有《女学生》(1939),获第四届北村透谷文学奖。此外尚有《童话集》(1945),发挥了作家奔放的想象力。 后期是1946至1948年,一般认为,太宰治的后期创作最有成就,

战争刚结束,他就发表了《潘朵拉的匣子》和《苦恼的年鉴》等小说,提出了追求“丧失了一切,抛弃了一切的人的安宁”的观点,以农本主义的幻想批判战后虚伪的文人骚客。

在他战后的作品中,短篇《维荣的妻子》(1947),中篇《斜阳》(1947)、《丧失作人的资格》(1948),被认为是最优秀的代表作品。这些小说发表后,无不引起巨大的反响。《维荣的妻子》写一个出身贵族、生活堕落的诗人及其妻子自甘堕落以示对社会道德的反抗。《斜阳》反映了战后贵族后裔的社会地位日益衰落,荣华显耀的时代已付诸东流的主题。《丧失去作人的资格》是太宰文学最杰出的作品,取材于作者自己的生活经历,写一个性情乖僻的青年知识分子,饱尝世态的炎凉,绝望之余沉缅于酒色,最后自己毁灭了自己。从一定角度揭示了现代日本社会人的异化问题。

1948年6月13日太宰治因对人生感到绝望而投水自杀。他的一生经历了日本革命运动被镇压到日本战败这一大动荡的时代,日本评论家平野谦说:“太宰的死,可说是这种历史的伤痕所造成的”。

太宰治

(だざいおさむ)

1909~1949

小説家

青森県生

本名:津島修治

東大仏文科中退

新劇作派

『魚服記』『思ひ出』、『葉』

『道化の華』芥川賞の次席となり、新進作家の地位を固める。 『ダス・ゲマイネ』

『二十世紀旗手』

『富岳百景』:小説家の修治は、筆が進まず、鬱蒼とした出口の見えない日々を送っていた。ある日、富士の見える“天下茶屋”で執筆活動をしている先輩小説家の井伏に誘われ、心を新たにその地へ向かった。天下茶屋での女将さんや娘さん、地元の人々との触れ合い、さらに、井伏の紹介でお見合いすることとなった美知子との出会いにより、修治の心に少しずつ変化が生まれていく。そんな

修治を、変わらぬ姿で見つめ続ける富士。月夜に浮かぶ富士は、美しく凛としてそびえ立つ…。

『駆け込み訴へ』:聖書から題材を得て、キリストの**であるユダの告白といった形式になっています。

『右大臣実朝』

『冬の花火』

『ヴィヨンの妻』:タイトルにある「ヴィヨン」は、フランスの詩人「フランソワ・ヴィヨン」です。フランス中世期の詩人で、パリ大学の文学修士の資格まで得ながら、強盗、殺人、放浪などの生涯を送った人物です。

『斜陽』:戦争が終わった昭和20年12月、没落貴族になったかず子と母は生活をしていくことが困難になったため、叔父のすすめ により東京の西方町の家を売り払い、伊豆の山荘で暮らし始めます。かず子は一度結婚するもうまくいかず、母の面倒をみながら暮らしてきたのです…。かず子のモデルとなった太田静子の日記を借りて書いた。

『人間失格』:写真を見たという男のはしがきから、主人公である大庭葉蔵の手記という形で構成されています。

『如是我聞』

『グッド・バイ』未完。

* 昭和8年、古谷綱武、今官一らと「海豹」を発行。

* 昭和9年、古谷壇一雄らと「番鳥」を発刊。

* 「日本浪漫派」に合流、三号の「道化の華」は芥川賞の次席となり、新進作家の地位を固める。

* 麻薬中每のために入院。

(五)安部公房

日本小说家。

生于东京一个医生家庭,曾随父移居中国东北,在沈阳度过小学和中学时代。1940年回日本升学。1944年为逃避服兵役,休学来到沈阳。第二次世界大战结束后被遣送回国。1947年自费出版油印本《无名诗集》。1948年参加由现代派作家组成的“夜之会”。同年毕

业于东京大学医学部,后弃医从文,走上职业作家的道路。

由于长期接受存在主义和超现实主义等西方现代派影响,所以他的作品往往具有特殊的场面、奇怪的情节、象征的手法和深刻的寓意,力图揭露社会的不合理性,并且探求解决问题的出路。

短篇小说《墙壁》是他获得芥川奖和确立文坛地位的作品,主旨在于表现人的孤独感。

重要作品有短篇小说集《闯入者》、中篇小说《野兽们向往故乡》、长篇小说《沙女》、长篇小说《旁人的脸》,剧本《幽灵在这里》和《朋友》,评论集《沙漠的思想》等。70年代以后的新作则有《梦的逃亡》和《笑月》等。他还写作剧本和评论,他所领导的“安部公房演奏室”专演他的剧本。

安部公房在创作上袭用西欧现代派表现形式,深受卡夫卡的影响。他使用离奇的寓意手法,把现实生活和虚幻的情境交织在一起,描写个人的孤独和人在不可思议的力量面前的无能为力,表现资本主义制度下人的“异化”现象。

安部公房

(あべこうぼう)

1924~1993

小説家・劇作家

東京生

東大医学部

『無名詩集』

『終わりし道標べに』

『赤い繭』第二回戦後文学賞。

『壁ーSカルマ氏の犯罪』第二十五回芥川賞。

『闖入者』

『飢餓同盟』

『どれい狩り』

『けものたちは故郷をめざす』:ソ連軍が攻めてくる。終戦の合図。母は、銃弾に腰を砕かれ、朽ち果てる。彼は、廃墟で屍とともに、侵攻を待つともなく…。成長した彼。そして彼は決意する。未熟な浅はかさ、時代に、人間に、翻弄され尽し、彼の前に立ちはだかるのは変わらず、どこまでもつづく、果てしない荒野。あまりに苛烈な運命の劇鉄に蹂躙されつづけ果たして彼に求めつづけた故郷、日本は微笑むのか…。

『棒になった男』芸術祭奨励賞。

『幽霊はここにいる』岸田演劇賞。

『第四間氷期』:巨大な津波が発生。大陸に向い、猛スピードで押し寄せはじめた…。研究チームの中心人物であるはずの彼。ところがことは、どうも彼ぬきで進んでいる様である。真相を追究し糾弾する手立てに、奔走する彼。しかし、彼の思考のプロセスと限界を知り尽くすコンピューターの、予測以上の結果を出せない生みの親でもある彼は、コンピューターの指令によって、抹殺の危機にさらされる。彼の残された選択は…。

『砂の女』:砂丘へ昆虫採集に出かけた男が、砂穴の底に埋もれていく一軒家に閉じ込められる。考えつく限りの方法で脱出を試みる男。ひきとめておこうとする女。読売文学賞、フランス最優秀外国文学賞を受賞。

『他人の顔』:薬品事故によって‘顔’をなくしたぼく。包帯越しに見る、欠落した光景。‘顔’に囚われれば、囚われるほど、そして、‘顔’を知れば知るほど、ぼくは、他者との通路を見失ってしまうのだ。そして、他者との通路を取り戻すべく作成した‘他人の顔’でぼくは、もっとも近く、遠い隣人、‘妻’を誘惑する…。 『箱男』

『燃え尽きた地図』:郊外のニュータウン、失踪した男を求めて、探偵は疾走する。失踪に及ぶ様々な手がかり。失踪の真相に近づいたと見えると、真相は舌ベロをヒラヒラさせて探偵をあざわらうように遠のいてしまう…。水銀灯の光に、コーティングされたコンクリートの、冬の街並み。やがて、すべての手がかりが尽きたとき、探偵は、おそるべき失踪の真相を体現する…。

『時の崖』

『友達』戯曲、谷崎潤一郎賞を受賞。

*「近代文学」同人に加盟。

*「夜の会」に参加して花田清輝の影響を受け、さらに日本文学会・記録芸術の会などに参加した。

*日常的な感情によって捉えられた現実世界の虚妄性を、緻密に組み立てられた観念によて暴き出していく前衛的手法が意識と社会の変革を目ざしている。

(七)芥川龍之介

日本小说家。

生于东京,本姓新原,父经营牛奶业。生后9个月,母精神失常,乃送舅父芥川家为养子。芥川家为旧式封建家族。龙之介在中小学时代喜读江户文学、《西游记》、《水浒传》等,也喜欢日本近代作家泉镜花、幸田露伴、夏目漱石、森鸥外的作品。

1913年进入东京帝国大学英文科。学习期间,成为第3次和第4次复刊的《新思潮》杂志同人。1915年发表《罗生门》,并未引起文坛重视。1916年,大学毕业之前,在第 4次复刊的《新思潮》上发表《鼻子》(1916),受到夏目漱石的赞赏。

《芋粥》(1916)和《手绢》(1916)接连问世,从而奠定了作为新进作家的地位。

大学毕业后,在镰仓海军机关学校任教3年。1919年入大阪每日新闻社。1921年以新闻社海外特派员身份到中国游览,回国后写了《上海游记》(1921)、《江南游记》(1922)等。

芥川龙之介是新思潮派的代表作家,创作上既有浪漫主义特点,又具有现实主义倾向。

龙之介的小说始于历史题材,如《罗生门》、《鼻子》、(《罗生门》和《鼻子》根据古代故事改编,揭露风行于世的利己主义)、;《地狱图》(1918)(写一个服务于封建公侯的画师为了追求艺术上的成就而献出女儿和自己的生命,抨击暴君把人间变成了地狱)、《偷盗》等;继而转向明治文明开化题材,如《舞会》、《阿富的贞操》、《偶人》等;后写作现实题材,如《桔子》、《一块地》以及《秋》等。在创作中注重技巧,风格纤细华丽,形式、结构完美,关心社会问题与人生问题。 芥川晚期的作品,反映了他对贫富悬殊的社会现实的幻灭感。1927年初,发表《玄鹤山房》,通过老画家之死,揭露家庭内部的纠葛,反映了人生的惨淡和绝望心情,暗示旧事物的衰亡和新时代的来临。写这篇作品时,芥川已萌自杀的念头,使以后的作品如《海市蜃楼》等充满了阴郁气氛。《河童》(1927)通过虚构的河童国,抨击人吃人的资本主义制度。

遗作《齿轮》和《某傻子的一生》(1927)描述作者生前的思想状态。1927年发表短篇《河童》,对资本主义社会及其制度作了尖锐的嘲讽。

同年7月由于健康和思想情绪上的原因,服毒自杀,享年35岁。在短短12年的创作生涯中,芥川写了148篇小说,55篇小品文,66篇随笔,以及大量的评论、游记、札记、诗歌等。

他的每一篇小说,题材内容和艺术构思都各有特点,这是他在创作过程中苦心孤诣地不断进行艺术探索的结果。他的文笔典雅俏丽,技巧纯熟,精深洗练,意趣盎然,别具一格。在日本大正时期的作家中占有重要地位。

为了纪念芥川在文学上的成就,从1935年起设立以他命名的“芥川文学奖”,它一直是日本奖励优秀青年作家的最高文学奖。

(九)島崎藤村

诗人、小说家,日本近代诗的奠基者。

本名春树。1872 年3月25日生于长野县,卒于1943年8月22日。1887 年进明治学院,并与北村透谷等人共同创办《文学界》,投身于浪漫主义文学运动。1896年前往仙台任教,创作诗集《嫩菜集》,获得了新体诗人的名声。其后相继发表 《一叶舟》、《夏草》和《落梅集》等诗集,以洗练的雅语和流畅的诗体歌咏青春的悲欢,为日本近代诗开拓了道路。

随后,他的兴趣转向散文,并于1906年出版了第一部长篇小说《破戒》。这部作品以贱民出身的青年教师濑川丑松为主人公,尖锐地揭露了封建身分制度的罪恶,获得社会好评。藤村的自然主义代表作家地位由此确立。回忆《文学界》时代的《春》和描写世家没落史的《家》,开辟了自传体长篇小说的新领域。1913~1916年间,为摆脱恋爱苦恼而流亡法国,归来后决心以小说形式进行忏悔并求得新生,其结果是《新生》的发表。

藤村最后一部杰作是1929~1935年间发表的宏大历史小说《黎明之前》。该书以主人公青山半藏为中心,表现明治维新前后人们的苦恼,饱含着作者的理想、憧憬、痛恨和怀疑。岛崎藤村是一位既勇于剖析自己,又敢于揭露社会的作家。

他是日本笔会第一任会长,1943年逝世,终年七十二岁。

(十)森鴎外

日本小说家、评论家、翻译家。

本名林太郎,号鸥外。1862年7月9日生于日本石见(今岛根县)鹿足郡一藩主侍医家庭。从小受到良好的国学、汉学和兰学(江户时代中期以后由荷兰传入日本的西方学术)教育。1882年毕业于东京第一大学医科学校,曾任陆军军医。1884年赴德国留学,广泛涉猎欧洲古今名著,深受叔本华、哈特曼的唯心主义影响,哈特曼的美学思想成为他后来从事文学创作的理论依据。1888年回国,历任军医学校教官、校长、陆军军医总监、陆军省医务局长等职。晚年担任过帝室博物馆馆长、帝国美术院院长职务。1922年 1月19日逝世。

森鸥外留学归来,以启蒙家的姿态开始文学活动。他翻译西方著名作家歌德、莱辛、易卜生等人的作品,同时创办《栅草纸》等文学刊物,介绍西方美学理论,开展文艺批评,并致力于戏剧改良、诗歌革新活动,在日本近代文学中产生过较大的影响。

1890年发表的处女作《舞女》,连同他的《泡沫记》和《信使》被认为是日本浪漫主义文学的先驱之作。《舞女》的主人公是一个留学德国的日本青年官吏,为了追求个性解放和纯洁的爱情,他曾爱上一个德国穷舞女,但在日本专制官僚制度和封建道德的压力下,终于遗弃了她,酿成爱情悲剧。作品反映了个性解放的要求与社会现实的矛盾,最终却与现实妥协。一般认为它是日本近代文学初期的代表作品。

1910年前后,森鸥外写了《青年》、《雁》等取材于现代生活的小说。 1910年日本政府制造了所谓“大逆事件”,加强了对思想文化界的专制统治,森鸥外开始转向历史小说的创作。他把自己的历史小说分为“遵照历史”和“脱离历史”两类。前者完全依据史料写作,后者则借助历史事件的描述来表达作者的理想和信念。

第一篇历史小说《兴津弥五右卫门的遗书》,赞美武士殉死行为。但紧接着创作的同一题材的短篇小说《阿部一家》,却客观地抨击了这一封建道德行为。阿部一家由于未被允许为藩主殉死而受到歧视,终致满门被杀戮,揭示了封建殉死制度的虚伪、腐朽和惨无人道的实质。这两篇倾向不同的作品反映了作者世界观上的矛盾。

作者晚年埋头于史料的考证,也写过几部人物传记,如《涩江抽斋》等。所传人物多为专心学术、不问世事的学者,表现作者晚年企图摆脱世俗的心境。

作品风格:侧重于体现他的伦理道德观,反映了明治时期上层知识分子思想上的矛盾。早期作品文笔优美,抒情气氛浓郁。后期大多数作品,特别是历史小说,往往采取冷峻客观的笔调。

大江健三郎

(おおえけんざぶろう)

1935~

愛媛県生

東大仏文科卒

『奇妙な仕事』:監禁状態の戦後青年の無力感を描いた。「東京大学新聞」五月祭賞受賞。

『死者の奢り』:高額の賃金を目的に、主人公である一人の男子学生が死体処理室の大型水槽の死体の世話をするという…。水槽に浮かぶ死体を、完全な物として捉えた主人公学生の思考が非常に興味深い。閉鎖的で孤立した独特の世界…。作家的に自立。

『飼育』:行機の墜落によって山村の村人に捕まった黒人兵を巡る物語。小説のほうには、少年達と兵士の心の通い合う瞬間が美しく描かれており、その美しさゆえに結末の残酷さがいっそう際立ちます。芥川賞受賞。

『芽むしり仔撃ち』:戦争末期、感化院の少年たちは山奥の僻村へ疎開させられる。仲間の一人が疫病で死んだ夜、村人たちは疫病を恐れて少年たちを置き去りにして村を出る。そして、少年達の自由を謳歌する短い日々が始まる。大人達に拒絶された少年たちの姿が瑞々しく描かれています。少年たちの荒々しい友情、疫病で母を亡くした少女と「僕」の出会い、純真な弟の描写など、とても切ないです。

『性的人間』:はJという青年の性的漂流を描いたもの。

『われらの時代』:外国人相手の中年娼婦である頼子、そのヒモとして同棲している主人公の靖男、その弟の滋がピアノを弾いている十代のジャズトリオ<アンラッキー・ヤングメン>、登場してくる人間がどれもこれも出口のない状況におかれ、そこからの脱出を夢見てもがいている。自殺がその唯一の道であると、この小説は主張しているような印象を与えます。

『青年の汚名』

『遅れてきた青年』:戦争で勇敢に死ぬことを望んでいた少年の<希望>は終戦によって絶たれた。その少年の1945年を描く第一部、少年が東大生となった50年代を描く第二部からなる長編。「フィクショナルな自伝」とされ、作者の二十代までの暗い心象風景をうかがわせます。

『日常生活の冒険』:伊丹十三を彷彿とさせる友人と、彼をとりまく(語り手自身を含む)人々の姿を描いた青春小説です。日常を安穏に生きることを認めず、冒険的に生きようとする友人の人生に語り手も巻き込まれ、数々の冒険をしていきます。それは外国の義勇軍への志願だったり、貧しいプロボクサーへの支援だったり、予定していた結婚の無期延期(そして結婚資金での外車購入)だったりします。このように書くと、快活で痛快な青春小説であるかのようですが、そういう面もあることはありますが、物語の悲劇的結末が小説の冒頭で示されるという悲哀にみちた小説でもあります。 『個人的な体験』:二十代後半の作者が体験した、障害のある子供の誕生。その動揺、絶望、そしてそこからの再生を描いた感動的長編です。新潮社文学賞受賞。

『万延元年のフットボール』:米国から帰国した弟が、万延元年の村の一揆を再現するかのように村の若者を組織し、行動する。物語は、「僕」が夜明け前、庭に掘った穴にパジャマのままで入るとこ

ろから始まります。「僕」は、友人を自殺で失っている。友人は、頭と顔を朱色に塗り、肛門にキュウリを突っ込んで素っ裸で首を吊ったのでした。こんな具合に、それぞれに煩悶を抱えた様々な人間が登場します。谷崎潤一郎賞受賞。

『われらの狂気を生き延びる道を教えよ』イタリアのモンデッロ賞受賞。

『洪水はわが魂に及び』野間文芸賞受賞。

『ピンチランナー調査』:最初は、大江を思わせる小説家の一人称で始まりますが、途中からは大江に寄こされた彼の知人(息子の養護学校の同級生の父)からの手紙をベースとしたゴーストライティングという形での、その知人の一人称となります。その原子力技術者の語る、彼の息子との経験がこの小説の中心となります。それは「宇宙的な意志」によって知人が20年若返り、息子が20年歳をとり、二人が宇宙的な意志にしたがって行動をするという、SFといってもよい物語。

『同時代ゲーム』:この小説は、主人公から妹へ送る六つの手紙で成り立っています。その中で描かれるのは、谷間の森の神話の総体。 『ヒロシマ・ノート』『沖縄ノート』『厳粛な綱渡り』『持続する志』『鯨の死滅する』

*アジア、アフリカ作家会議に参加、日本アラブ文化連帯会議に参加、活発な社会的活動をも示し、現代文学の代表的作家としての力量を示している。

*1976年(昭和51年)41歳、芥川賞選考委員に。

*1994 平成6年 ノーベル文学賞受賞

*1994年(平成6年)59歳、長男光の作曲家としての成功を期に小説執筆の終止を宣言。

*1994年、文化勲章と愛媛県の賞を辞退。


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